牡蠣に当たった話

言いたい放題

臨床の仕事を始めたころ、よく精神科の医師や臨床心理士に、木村先生は「強い人」ですね、と言われました。どういう文脈でそのように言われたのか、はっきりとは覚えていませんが、困難に立ち向かい、それを乗り越えていくことによって、人は成長していくと信じていましたし、自分自身は人生においてファイターでありたいと思っていましたので、そういう信条が言動のここかしこに出ていたのかもしれません。

さて実際に、子育て支援や学生相談にあたっていると、さまざまな「こうしたいのはやまやまだけどできない」人たちの相談に乗ることになります。いつも子どもに笑顔で接したいけど、イライラが募って怒りが爆発してしまう母親、友達にいい顔ばかりせずにはっきり断りたいけど、断れない若者、授業に出たいけど、どうしても教室に入れない学生などなど、思いはあってもどうしてもそれができない人たちからの相談です。そういう人たちと向き合いながら、私は彼らの気持ちを理解し、寄り添ってきたつもりでいました。そして、どんな困難があっても、気持ちを強く持てば、必ずやそれを克服することができると信じていました。

しかし、そんな信念が打ち砕かれる出来事が起こりました。

ある4月初旬の休日、三重県に家族とドライブしたときに、有名な牡蠣の産地を訪れました。生牡蠣が大好きな私たちは、たっぷり買い込んで家に持ち帰り、3、4日間、毎晩、晩酌に生牡蠣をいただきました。その美味しいこと!あぁ、なんて贅沢なんだろうと舌鼓を打ち、海のミルクを堪能しました。

最後の牡蠣を食べ終わって2日後、私の体に異変が起きました。下痢と嘔吐が始まり、一人で立ち上がることもできず、病院の待合室でも寝転がったまま、診察を待ちました。診断は、急性の胃腸炎で、牡蠣に当たったのだろう、とのことでした。それから2日間は、眠れないほどの腹痛と下痢・嘔吐で、今まで経験したことのない辛さでした。

症状が治ってしばらくは、牡蠣のことを考えるだけで、腹の痛みの記憶が蘇り、2度と牡蠣は食べられないと思っていました。しかし、2ヶ月、3ヶ月と経つうちに、だんだんとその記憶も微かなものとなっていきました。

その年の9月、フランスを訪れました。帰国前日、昼食を食べようとレストランを訪れたところ、ちょうど牡蠣の美味しい季節が始まったところだったので、豪華に盛り付けられた牡蠣の写真が店の内外に貼られていました。それを見た私は、牡蠣に当たってからそろそろ5ヶ月にもなるし、その恐怖を克服できるのではないかと考えました。ちょっと当たったくらいで、あの美味しい牡蠣を一生食べられなくなるなんて悲しすぎる。大丈夫、今までだって、たくさん牡蠣を食べてきたけど、当たったのはたった1度ではないか!万が一、当たっても症状が出る頃は日本に帰っているし、まだ夏休みだから寝込んでいられる。よし、注文しよう。そんな風な思いで、生牡蠣を注文しました。

牡蠣が運ばれてくるまでの間、私は頭の中で、ただひたすら「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせていました。忘れていたはずの腹の痛みの記憶と恐怖がぐぐっと頭をもたげてくるのを、なんとか押さえ込もうと必死でした。ほらほら、周りを見てごらん。みんな美味しそうに食べてるよ。誰も怖がってなんかいない。きっとすごく美味しいよ。

ふと、目が痒いな、と思いました。むむっ、両目とも痒いぞ。鏡を取り出して見てみると、なんと、両目のまぶたが腫れ上がってきています。そして手や足のあちらこちらに痒みが走り、よく見ると身体中に蕁麻疹が出てきているのです!まだ何も食べていないのに!

注文したすべての料理ががテーブルに運ばれた頃には、全身に広がった蕁麻疹のせいで、痒みと恐怖の二重苦に苛まれることになりました。

それでもせっかくだからとなんとか食事を終えた私は、来た時とは別人のような顔になって、レストランをあとにしました。えっ、牡蠣は食べたのかって?もちろん、食べました(だから「強い人」って言われるのか…)。

帰国後、精神科医や臨床心理士とのミーティングの機会があり、休憩時にこの話をしました。私が、「いやはや、牡蠣を注文しただけで、食べてもいないのに蕁麻疹が出るとは思いもしませんでした」と話すと、精神科医が、「いいえ、身体は正直で、てきめんに現れますよ。それは全身が、『牡蠣を食べるな』って警告していたんですよ」と言いました。

「え、そうなんですか。私は意志の力で、恐怖を克服できると思っていたんですけどね。」と私。すると臨床心理士が「先生は、『意志の力』で克服できると思っていたんですね…」としみじみと言いました。

そのとき私は初めて、本当の意味で、身体が拒否するということがどういうことかがわかりました。これまで学生相談で、「学校に行こうと思っても、どうしても身体が言うことを聞いてくれない」と学生が言っているとき、言葉では何となく理解していても、本当の意味で理解してはいなかったのです。無意識の領域が私たちの行動の多くを決めていることは、様々な研究で示されてはいますが、それでも実感としては、心が身体を制御し、行動を支配していると私たちは信じています。だから私自身、心を強く持てば、何事も成し遂げられると信じていたのだと思います。それまでは。

どれほど意志を強く持ったとしても、身体を制御することはできないー。単純なことですが、身をもって体験しました。

それ以来、私は「『意志の力』信者」ではなくなりました。

Minako Kimura

最近はストリーミング配信で映画をたくさん見ています。良い時代になったなぁ、としみじみ思いますが、やっぱり映画館にも時には行きたい…。

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