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2022年2月16日 加藤義信 * 2020年秋の「認知発達の基礎を学ぶ会」例会の後に、会を主宰する中垣啓先生から参加者全員に向けて、「表象の発達」についての以下のような問題提起をいただきました。 問題1:指差しは表象の原初的形態といってよいか。もしそうだとすれば、指差しは表象の定義(不在の指示物の現在化)に反していることになるが、それでも構わないのか。 問題2:象徴遊び(フリ遊び)の起源は個人的なものか、初めから社会的なものか。もし社会的なものとすれば、一人で行う象徴遊びをどのように解釈するのか。 問題3:幼児期に盛んに行う象徴遊び(フリ遊び)は子どもの発達にどのような意義があるのか。親や保育者は幼児の象徴遊び(フリ遊び)を促すべきなのか、抑制すべきなのか、放任すべきなのか。 問題4:DeLoacheのScale Model Taskは幼児の象徴理解を問う課題なのか。象徴はその指示物との形の類似性を必要としないが、この課題ではモデルとリアルな部屋との間に十分な形状の類似性がある。課題解決にそうした類似性の存在が不可欠である課題を象徴課題と言えるのであろうか。 問題5:写真やビデオはシンボルか。問題を言い換えれば、写真やビデオの指示物が何であるかは乳児でも分かる。もし写真やビデオがシンボルであるとすれば、乳児(おそらく6ヶ月児までに)は既にシンボル理解が、したがって表象機能があることになるが、こう考えてよいか。 先生ご自身は、それぞれの問いに独自の見解をお持ちのことと思いますが、私自身はどう考えるかを、この機会に文章にしてみました。自分の中で一定の整理をする上で、今回の問題提起は大いに役立ちました。中垣先生に記して感謝申し上げます。 以下が、この問題に対する私のさしあたりの回答です。参考にしていただけたら幸いです。 |
問題1a:指差しは表象の原初的形態といってよいか。
Answer: そういってよい(理由は後述)。
問題1b:もしそうだとすれば、指差しは表象の定義(不在の指示物の現在化)に反していることになるが、それでも構わないのか。
Answer: この問いかけは、表象の不適切な定義を前提にしている。「不在の指示物の現在化」という定義は、表象(representation)の語源的意味に合致しているが、ある意味で表象の働きに焦点を当てた機能的定義であって、本質的な定義と言えない。表象の定義の中核は、「現実世界の置き換え」という部分にある。
Perner(1991)によれば、表象は以下のように定義される。
「A representation is something that stands in a representing relation to something else.」(表象とは、何か別のものとの代理的関係にある、何かである)
この定義には、representationの内包を示す述部にrepresentという動詞を意味をずらして用いており、同語反復的な感が否めない。そこで、この定義に触発されてさらに正確さを期した筆者の定義を次に挙げる。
「対象や出来事をそれが経験される場から時間的、空間的に切り離して、別の心的なもの(イメージ、記号、ことばなど)、あるいは別の外的対象に付託された心的なもの(身体所作、ミニチュア、人形、写真、絵など)に置き換えて保持できるようになること」(加藤,2007を一部改変)
以下、問題1に対する回答について、さらに解説する。
1)「指さしは表象の萌芽的形態と言える」のは、仮に「不在の指示物の現在化」という定義を適切な定義として受け入れた場合にも妥当する。なぜなら、指さしが不在の対象に向けられる場合の観察事例も存在するからである。
[加藤の観察事例]Aちゃん(2歳0ヶ月):庭で遊んでいて、上空に飛行機が飛んできたのを見ていたが、遠ざかって見えなくなってしまうと、さっき見ていた空に向かって指さしをして「ない、ない」と言った。
[Tomasello (2008)の引用する観察事例]1歳0ヶ月、窓から飛行機の音のする方向を指す(飛行機は見えない)。意味「飛行機(の音)に注意して。格好よくない?」
2)表象の本来の定義の中核にあるのが「現実世界の置き換え」だとすれば、指さしはこの条件を満たしている。7ヶ月児の目の前に人差し指を出して、何かを指さして見ても、乳児はその指そのものに注意を向け、つかもうとしたりする。この時点では、他者の指の動きは乳児にとって実践的行為の対象であり、また、自分の同型の人差し指(7ヶ月時点では、人差し指は親指以外の他の指と分化して、親指と対向的に機能する特権的な働き[小さいものをつまむなど]をする指になっているのだが)は、もっぱらpracticalな行為の道具的意味を持っているにすぎない。ところが、同じことを同じ乳児に3ヶ月後に行ってみると、もう人差し指を掴みに行こうとはせず、その指の先を見るようになる(このドラスティックな変化は、坂田『ぶんちゃん、生後1年間の記録』に見ることができる)。指は指示的機能を新たに獲得したのである。その指の先端は、さらにその先にある対象を「置き換え」る働きをするようになったのだ。つまり、そこでは指の先端が「置き換えるもの(能記 signifiant)」で、先にある対象が「置き換えられるもの(所記 signifié)」という分化が生まれている。
したがって、指さしは表象である。ただし、萌芽的形態の表象である。なぜ萌芽的かと言えば、指さしは「いま、ここ」に縛られている。つまり、定義の中にある「対象や出来事をそれが経験される場から時間的、空間的に切り離して」という条件は未だ十分に満たしていないからである。指さしの始まりにおいては、signifiantとなる指先とsignifiéとなる指示対象は「いま、ここ」という時間と場を共有している。やがてこの制約はゆるくはなる(不在の対象を指すことも短い時間の範囲内では可能になる)が、指さしが指さしである限り、なくなることはあり得ない。
問題2a:象徴遊び(フリ遊び)の起源は個人的なものか、初めから社会的なものか。
Answer: おそらく、初めから社会的なものであろう。
問題2b:もし社会的なものとすれば、一人で行う象徴遊びをどのように解釈するのか。
Answer: この問題の立て方は、ある機能の発生の起源についての問いと、その機能が成立してから出現する現象形態のひとつについての問いを混同している。フリ遊びの個体発生的起源が、おそらく社会的なものであったとしても、いったん子どもに獲得されてしまえば、他者との共同性を欠いた場面で、フリ遊びが個人の遊びとして、個人の快を刺激する遊びとして、現象することがあっても、何ら不思議はないのではないか。遊び一般における集団性の展開と高次化の問題は、象徴遊びの出現に果たす社会的な要因の役割とは別次元の問題として、また考察される必要があろう。
問題3:幼児期に盛んに行う象徴遊び(フリ遊び)は子どもの発達にどのような意義があるのか。親や保育者は幼児の象徴遊び(フリ遊び)を促すべきなのか、抑制すべきなのか、放任すべきなのか。
Answer: 筆者は実践と結びついた研究をしているわけではないので、この問題に関しては自分で納得がいくだけの、十分な情報と思考の蓄積がない。したがって、回答を控えるべきとも思ったが、以下、この種の問いに対する筆者のスタンスについてだけ、書かせていただく。
子どもの発達途上のあらゆる活動について「発達的意義」を問うこと自体が、教育的であるとは思えない。それは、子どものある時期の活動を次の時期の準備の活動として手段化し貶めることに繋がらないか。ある時期のある場面でのフリ遊びが子どもによって生き生きと展開されており、子どもがその遊びに大きな喜びを見出しているのであれば、そのフリ遊びは結果として発達的であり教育的である。しかし、フリ遊びが”教育的”の名のもとに大人によって組織され子どもに押し付けられるのであれば、そのフリ遊びは“反発達的”ではないかと思う。
しかし、フリ遊びの世界がまったく開けてこない子どもの場合はどうであろうか。そのことによって、子どもが人間的な世界の豊かさに触れる機会を奪われたり狭められたりするのであれば、やはり、そうした世界への入り口を開く手助けとなる道筋を、発達研究者は探索すべきであろう。その場合も、子どもの活動の操作や制御といったイメージの強い教育ではなくて、支援や足場かけ(scaffolding)といったイメージに基づく子どもとの関わりが重要であると考える。
問題4a:DeLoacheのScale Model Taskは幼児の象徴理解を問う課題なのか。
Answer: 間違いなく、象徴理解を問うている課題である。
問題4b:象徴はその指示物との形の類似性を必要としないが、この課題ではモデルとリアルな部屋との間に十分な形状の類似性がある。課題解決にそうした類似性の存在が不可欠である課題を象徴課題と言えるのであろうか。
Answer:表象機能を「現実世界の置き換え」として理解する立場からすると、この機能に関わる問題を考えるためは、それを、置き換えるもの(意味するもの or 能記:signifiant)と置き換えられるもの(意味されるもの or 所記:signifié)の関係理解の問題として整理していく必要がある。中でも、この両者の関係には、その分化度に応じた異なる水準があり、ピアジェはソシュールを参考にしつつ、この水準を4つ(信号signal、標識indice、象徴symbole、記号signe)に分類した。このうちの象徴とは、「所記から分化してはいるが、所記と何らかの類似性を保持している能記」(中垣, 2007; p.96)である。したがって、scale modelは、ソシュール的・ピアジェ的な意味での象徴である。DeLoacheがsymbolあるいはsymbolicという英単語をソシュール的・ピアジェ的な用語として十分意識して使っていたかどうかは定かでないが、私たちは彼女の課題を、幼児期のはじめの象徴レベルの表象機能の働きを見ている課題として捉えてよいのではないだろうか。
なお、さらに加えて言えば、scale modelは現実の部屋とは「十分な形状の類似性」があるだけでなく、明らかな「大きさの差異性」がある。そして、実物の部屋とミニチュアモデルの部屋の関係は、一方(実物の部屋)が「意味されるもの:signifié」であり、他方(ミニチュアモデル)が「意味するもの:signifiant」である関係として設定され、その逆は成り立たないことを前提としている。Perner (1991) は、表象的関係が成立しているときに認められる4つの性質を整理しているが、その筆頭に挙げられているのが、この「非対称性asymmetry」である。Scale modelは、この表象的関係に必要な非対称性を満たしている。もしscale modelと現実の部屋との間に「十分な形状の類似性」があって、なおかつ同じような大きさであれば、それは単なるよく似た二つの部屋に過ぎなくなる(「表す―表される」の関係ではなくなる)。DeLoacheがその実験で示したのは、scale modelは指示性(現実の部屋を表す)とそれ自体の現実的物質性(遊び道具etc.)の両方を備えているがゆえに、年少幼児はその現実的物質性に対して行為を触発されてしまい、その結果、指示性の側面の理解が難しくなる(dual representationの困難)という事実であり、それはこの時期の子どもの表象理解の特性をよく示していると言えるのではないだろうか。
問題5:写真やビデオはシンボルか。問題を言い換えれば、写真やビデオの指示物が何であるかは乳児でも分かる。もし写真やビデオがシンボルであるとすれば、乳児(おそらく6ヶ月児までに)は既にシンボル理解が、したがって表象機能があることになるが、こう考えてよいか。
Answer:そのように考えるのは、間違いである。
写真やビデオは、ソシュール的、ピアジェ的な用語の意味でのシンボル(symbole)である。問題4のAnswerで示したように、彼らは表象をsignifiantとsignifiéの分化度によって、4つの水準(信号、標識、象徴、記号)に分類した。この分類に従えば、被写体と映像との間に、極めて高い視覚的類似性があり、その間の関係に恣意性の入り込む余地は極めて小さいという意味で、写真やビデオは記号(signe)ではなくシンボルである。しかし、写真やビデオは、いったん作成されれば被写体から時間的・空間的にまったく切り離すことができるし、映像の中の対象にはボリュームもなく、場合によっては色さえなく、まして他の感覚属性は再現されない(ことが多い)のだから、信号(signal)でも表徴(indice)でもないことは明らかである。
なお、「写真やビデオの指示物が何であるかは乳児でも分かる」という表現は正確でない。なぜなら、例えば、「写真やビデオにある“リンゴ”がリンゴであると分かる」ことと「写真やビデオにある“リンゴ”がリンゴの指示物であると分かる」ことは違うからである。前者の「分かる」は、映像のリンゴを単に実物のリンゴと混同しているだけである。後者こそが、映像をシンボルとして理解できたときの「分かる」である。
前者の「分かる」については、例えばDeLoache, Strauss, & Maynard (1979)の馴化—脱馴化法を用いた研究がある。それによると,乳児は5ヶ月ぐらいから三次元的な対象とその二次元的な写真との視覚的類似性を理解できているという。しかし一方で,この両者の類似性の理解は,実は写真の象徴性の理解を伴っていないことを示す研究が多くある。実際,9ヶ月児が写真に写っている対象をつかもうとしたとする実験結果(DeLoache, Pierroutsakos, Uttal, Rosengren,&Gottlieb, 1998; Pierroutsakos & DeLoache, 2003)があるし,1歳4ヶ月児でも写真の靴を履こうとしたなどの観察事例(Perner , 1991)の報告は枚挙に暇がない。
つまり、写真が写真として、シンボルとして、理解されるようになるのは、表象機能の萌芽形態である指さしが10ヶ月ぐらいから始まり、1歳過ぎから言語の獲得が始まってからのことである。
