『アンリ・ワロン その生涯と発達思想』,福村出版, 2015年刊
2022年1月18日 作成 加藤義信
拙著『アンリ・ワロン その人と発達思想』が刊行されてからもう6年余となります。この間、読者の皆さまからはたくさんの書評や感想、励ましのことばを頂きました。ここに心よりお礼申し上げます。
さて、最近、第1章の「アンリ・ワロンの人と生涯」の最後の部分(47頁)に、重要な誤りがあることを発見しました。本書に目を通してくださった読者の皆さまにこの点をお詫びすると同時に、以下に訂正表を作成しましたので、ご確認いただければ幸いです。
「重要な誤り」とは、47頁のワロンの葬儀に関する以下の部分です。
「3日後の12月4日には葬儀が営まれ、レジスタンスの同志でありノーベル化学賞受賞者のフレデリック・ジョリオ=キュリー(Fréderic Joliot-Curie)が小雪の舞う中、無帽のまま棺の前で弔辞を読んだ。パリの冬の初めに典型的な寒い1日であった。」
先日、たまたま松村由利子さんの『短歌を詠む科学者たち』(春秋社, 2016年)の第6章「パリで詠み続けた女性物理学者―湯浅年子場合」を読んでいたら、日本ではむしろ歌人として著名になった彼女が、フランスの原子核化学研究所のF. ジョリオ=キュリーの下で研究に励んだ人であることを知りました。松村さんの著書には、当然、このF. ジョリオ=キュリーについても詳しい紹介があり、彼が戦前・戦後を通じてノーベル化学賞を受賞するほどの優れたアカデミックな仕事をしただけでなく、フランスにおける反戦平和の活動においてもリーダー的存在であったことが記されていました。それらは、ほとんど私にとっては既知の内容だったので、特に格別な感想もなく読み進めて行くと、その最後のほうに来て、体が凍りつくような事実に行き当たってしまいました。
1958年8月、F.ジョリオ=キュリーは肝臓を患って入院していたが、湯浅は突然の虫の知らせによって、休暇先のアルプス山麓からパリに電話して、彼の死を知ることになる。58歳だった。(村松著p.265, 該当部分要約)
つまり、F.ジョリオ=キュリーは、ワロンが亡くなった1962年の4年前にすでに亡くなっていたことになります。私はすぐ、手当たり次第に、事典やインターネット上での検索によって、この事実を確認してみました。間違いありませんでした。正直なところ、愕然としました。つまり、拙著に書いた、「ワロンの葬儀で弔辞を読む」ことなど、彼にできるはずはなかったからです。したがって、拙著47頁の上記に示したF.ジョリオ=キュリーに関する部分は誤りなので、削除をお願い致します。
次に、なぜこのような間違いが生じたかを考えて見ました。
拙著47ページの注にも部分的に書きましたが、私は2012年8月に、フランスにおけるワロン研究の第一人者であるE. J.先生とワロン家の一員であるPh. W.氏と共に、フランス国立公文書館を訪れ、そこに保管されているワロン関係の資料文庫(Archives d’Henri Wallon)を、1日かけて閲覧しました。その際、非公開になっているワロンの写真資料についても、特別にお願いして、葬儀のときの写真を2枚だけ、見せてもらいました。その1枚には、屋外で行われた葬儀の壇上で弔辞を読み上げていると思われる男性が写っており、私たち三人と資料文庫の管理責任者の女性の方を含めた四人で、「これは誰だろうか?」とあれこれ推測を述べあったことを覚えています。そこで最初に、「F.ジョリオ=キュリーではないか?」との推測を口にしたのは、私でした。写真の人物は、年齢が50代から60代に見えたので、ワロンより20歳ほど年下で、戦時中のナチによるパリ占領下で、レジスタンスを共に戦い、戦後もワロンに近い立場で、フランスにおいて積極的な社会的発言を続けて来た著名な研究者・知識人は、F.ジョリオ=キュリーをおいて他にないと思ったからです。この推測に対し、その場で他の三人から同意の意見が得られたことに、私は有頂天になってしまったのでしょうか。以後はもう、葬儀で弔辞を読んだのはF.ジョリオ=キュリーであることを、疑わなくなってしまったのでした。
このことは、ワロン文庫の閲覧に協力いただいた三人のフランス人の方々には、一切、責任はありません。いわゆる「推測や仮説には、必ずその根拠となる情報を得るよう努める」という、研究者としてのイロハを私が怠った点に、すべての原因があります。もう記憶も曖昧なのですが、今から思うと、そもそもその場で得られた「同意」なるものは、きっと「C’est possible」とか「Probablement」といったフランス語表現で、日本語で言えば「それもありかもね」ぐらいのニュアンスにすぎなかったのでしょう。それを早とちりして、この即席の「Joliot-Curie仮説」についてしっかり検証しなかった愚を犯したことを、今はとても恥ずかしく思います。
ここに読者の皆さんに心よりお詫びすると同時に、他のマイナーな部分も含めた訂正表を添付させていただきますので、どうかご覧になってください。
私は、今後もアンリ・ワロンの伝記的事実の収集に努めるつもりですが、今回の誤りを教訓として、いっそう慎重かつ厳密にそれを進めることを、ここにお誓い申し上げる次第です。どうか、引き続きご支援のほどをお願い致します。
『アンリ・ワロン その生涯と発達思想』 訂正一覧表
2022年1月18日 作成
| 該当ページ・行 | 誤 | 正 |
| 46頁, 2〜4行目 | 3日後の12月4日には葬儀が営まれ、レジスタンスの同志でありノーベル化学賞受賞者のフレデリック・ジョリオ=キュリー(Fréderic Joliot-Curie)が小雪の舞う中、無帽のまま棺の前で弔辞を読んだ。パリの冬の初めに典型的な寒い1日であった。 | 下線部をすべて削除し、以下のように訂正*。
「3日後の12月4日には葬儀が営まれた。パリの冬の初めに典型的な寒い1日であった。」 |
| 46頁,注41),3行目 | …葬儀の写真のみを特別に見せていただいた。 | 以下の二重下線部を追加。
「…葬儀の写真2枚のみを特別に見せていただいた。2枚とも屋外で撮られた写真で、棺を囲む多数の参列者が厚いコートの襟を立てて、弔辞に耳を傾けている。やや大写しの1枚には、所々、白い点がはっきり写っていたのは、小雪が舞っていたからだろうか。寒々とした中に厳粛な雰囲気の伝わってくる写真だった。 |
| 134頁, 15-16行目 | …伸びたり、縮んだり、こまったり、… | …伸びたり、縮こまったり、… |
| 134頁, 19行目 | (pp.74-75) | (p.75) |
| 137頁, 5行目 | 発生や… | 発声や… |
| 209頁,年表の真ん中の列,2-4行目 | ノーベル化学賞の受賞者で共にレジスタンスを闘ったのフレデリック・ジョリオ=キュリー(Fréderic Joliot-Curie)が弔辞を読む。 | 下線部を全文削除。 |
| 216頁,人名索引のサ行,上から13番目 | ジョリオ=キュリー(Joliot-Curie, F.)46, 209 | 下線部を全文削除 |
