中村和夫著 『ヴィゴーツキー理論の神髄―なぜ文化−歴史理論なのか―(2014年)』を読む

書評
私にとって、中村和夫さんは、若い頃から発達理論の本格的研究者として、一歩も二歩も先を歩む眩しい存在でした。また、同世代の仲間として、折に触れて私のワロン研究を励まし続けてくれる存在でもありました。2014年の春に、中村さんのヴィゴーツキー研究の総仕上げともいうべき本書が出たとき、私は同年の短い夏休みの間にこれを精読する機会を作りました。そのとき、ご本人に読んでもらうことを想定して書いたのが、以下の書評です。書評としては長すぎるので、どこへも投稿するあてもなく、中村さん以外の方々の目に触れるようにしたのは、2017年3月の発達心理学会第28回大会(広島)のラウンドテーブル「ピアジェ・ワロン・ヴィゴーツキー」の折に、資料として配布したのが最初です。今回、HPのリニューアルに伴って、これをアップすることにしました。(KY)

書誌情報: 中村和夫(2014年)『ヴィゴーツキー理論の神髄―なぜ文化−歴史理論なのか―』,  福村出版,定価2200円。ISBN978-4-571-23052-3

 

1.新著の特徴

1990年代半ばにアメリカ発の「ヴィゴーツキー・ルネサンス」がにわかに注目されるようになって以来、日本でもヴィゴーツキー理論に関心を向けシンパシーを感じる心理学研究者は増えている。しかし、中村和夫さんのヴィゴーツキー研究は、その誰とも年季の入り方と本気度が違う。若いときからロシア語の原典にあたりヴィゴーツキーを読み込んできた中村さんならではの、アメリカ経由の“流行”に左右されない視点と知恵の蓄積が、その著作にはある。ロシア語の読めない筆者は、中村さんが「ヴィゴーツキーはこう言っている」と語れば「そうだろうな」と納得するし、「こんなことは主張していない」と書けば「そうだったのか」と目が開かれる。斯様に、中村さんのヴィゴーツキー論は、その根っこのところで信頼がおける。

今回上梓された『ヴィゴーツキー理論の神髄―なぜ文化−歴史理論なのか―』も、これまでの中村さんの数多の著書・論考の延長上にあって、正確なヴィゴーツキー読みに徹した著作であることに変わりはない。しかし、「神髄」と銘打っているだけあって、今回はヴィゴーツキー理論のエッセンスが1つの命題とそれをめぐる4つの問いに凝縮されて論じられている。4つの問いとは「なぜ言葉なのか」、「なぜ感情なのか」、「なぜ内言の意味なのか」、「なぜ文化−歴史的理論なのか」で、いずれも「なぜ」という問いの形になっているのは、意味があってのことだろう。理論を支える根本命題が何かを問い、その根拠とそこから派生する理論的諸問題について、中村さんは改めて問い直そうと試みたに違いない。中村さんには既に先行して3つのヴィゴーツキー論の著書があり、そこでも「言葉」や「内言の意味」、「文化—歴史理論」は、少なからず深く論じられている。しかし、一般的にこうした問題群の重要性や意味を論ずることと、ヴィゴーツキー理論の中核が何であり、その根拠を問うためにこうした問題群をひとつずつ問い質していくことは、同じようでかなり違うはずである。後者を論ずるためには、理論自体の生成・発展過程と当時の歴史−社会的文脈、さらにはヴィゴーツキーその人の人格の志向性といった点までも視野に入れざるをえない。新著で取り上げたすべての問題群で、こうしたことに直接触れて論を展開しているかどうかは別として、執筆の始めに中村さんの頭の中には、このような視点を踏まえた論述の意図があったと、筆者は想像する。だからこそ、新著の中には、教育学者・神谷栄司氏とのヴィゴーツキー理論の発展過程史をめぐる書簡のやりとりや、ヴィゴーツキーの娘さんへの貴重なインタヴューが、資料として、あるいは1章分、挿入されたのではないだろうか。

新著では、これまでの著書では本格的に論じられてこなかった問題も、取り上げられている。「感情」の問題である。筆者もその一人なのだが、ヴィゴーツキーの発達論や教育論を主知主義的傾向が強い理論として受け取っている心理学者は、多いであろう。実際、ヴィゴーツキーだけでなく、20世紀前半の心理学全体にとって、「情動」や「感情」は扱いのやっかいな、科学理論の対象として真正面から論じ難いテーマであった。精神分析はその間隙を埋める理論として期待を集めたから広まったとも言えるし、ピアジェも自らの発達理論の中に「感情論」を位置付けることに苦労した。このような理由から、ヴィゴーツキーが「感情」についてどのように論じたかは、大いに興味をかき立てられるところであり、中村さんは1980年代になってやっと刊行された草稿(日本語訳は2006年に『情動の理論―心身をめぐるデカルト、スピノザとの対話―』として出版されている)に基づき、その論の文字通りエッセンスを解説している。

筆者はヴィゴーツキアンでないし、若い頃から『思考と言語』などの訳本を断片的に読んでは挫折を経験し続けてきた一発達研究者にすぎない。したがって、本書の中の資料にある、中村さんと神谷栄司氏との間で交わされた書簡のような密度の高い議論を、ここでしようとしても、とてもできない。ただ、筆者なりに、中村さんの新著を読んで大いに刺激を受け、いくつか重要な発見もあった。また同時に、新たな疑問も少なからず生まれた。以下では、特にワロンとの比較を念頭におきつつ、そうした点を2点に限って書き記してみたい。

2.ヴィゴーツキー理論の根本命題をめぐって

本書の冒頭第1章では、ヴィゴーツキー理論の神髄の根幹をなす命題が「人間の高次心理機能の言葉による媒介性」であることが、まず指摘されている。2章以下では、この命題をめぐるさまざまな理論問題が「なぜ〜か」という問いに答える形で展開されている。正直なところ、最初、筆者は章の並び方がなぜこのようになっているかを理解できなかった。しかし、次第にわかってきたのは、数多のヴィゴーツキー解釈がある中で、中村さんは旗手鮮明に、上記の命題をこそヴィゴーツキー理解の中心命題であると主張し、2章以下はその肉付けとしての論になっている、ということである。

「人間の高次心理機能の言葉による媒介性」という命題自体は、ヴィゴーツキアンであれば、誰もがヴィゴーツキー理論の中心命題のひとつとして認めるテーゼであろう。しかし、それをもっとも重要な中核的命題と考えるかどうかとなると、意見は分かれる。ヴィゴーツキー以後のソビエト心理学では「活動こそが人間の意識を生み出す原動力である」とする活動理論が主流となり、ヴィゴーツキーは、あるときは意識の発達に果たす活動の役割の根源性を看過したと批判され、別の場合には彼こそが活動の役割の主唱者であったと称揚されたりしてきた。中村さんは、この活動理論内部でのいずれの立場にも批判的なスタンスをとり、そもそも「ヴィゴーツキー理論は活動理論でない」ことを明確に主張する。既に前著(中村, 1998)でこの点を緻密に論証し終えている中村さんは、ヴィゴーツキーがなぜ「意識の発達の基本原因」を活動でなく言葉に求めたか、なぜその点こそをヴィゴーツキー理論の中核として理解する必要があるかを、新著では特に丹念に論じている。

中村さんの論述から筆者が読み取ったのは、次のようなロジックである。

「人間が外的現実に働きかけ、それを変革することによって、自らの本性をも変革する」という唯物論的な観点をヴィゴーツキーも当然のことながら承認する。その限りで、ヴィゴーツキーは「活動」という用語をあまり用いなかったとしても、人間理解にとってその概念がいかに重要であるかを十分理解していた。しかしながら、あらゆる外界に向けての実践的活動が、人間的な対象的活動(労働)なのではないことにも、留意していた。「言葉よりも発生的に古く、類人猿にも共通して見られる道具的な実践的活動は、それだけではそのまま人間の独自の労働活動へとつながっていかない」のである。人間的な対象的活動(労働)とは、「常に、まず何よりも内面化された言語的平面で観念的に計画され、遂行され、そのあとに、この言語的平面で準備されたプランと解決が」実行に移される、そういった活動のことである。だとするなら、人間の実践的活動の背後にある心理過程を生み出し、その高次化を可能にする言葉こそが、心理学において決定的に重視すべき要因である。言い換えれば、人間的な対象的活動を支える「高次心理機能(意識)のシステム全体の発達の原因として」、言葉(記号)こそがその中心を占めていると考えなければならない。

ヴィゴーツキー理論の中核にある言葉(記号)の役割の重要性を強調する中村さんの上記のような論は、活動理論をめぐる議論に疎い筆者にも十分説得的である。それだけでなく、筆者はこのような中村さんの主張を読んで、改めてヴィゴーツキーとワロンの同時代性を再確認するとともに、これまで「相当に異質」と考えてきた両者の間に発想の類縁性のあることを、初めて見出すことができた。

ヴィゴーツキーとワロンの同時代性とは何であろうか。それは、ヴィゴーツキーの生涯(1896-1934)がワロンの生涯(1879-1962)にそっくり包摂されるという意味だけではない。ヴィゴーツキーがその短い生涯の中でもっとも生産的に心理学理論の構築に費やした晩年の10年(1920年代項半と1930年代前半)は、晩熟型であったワロンが医学から心理学に転じ、その発達論の骨格部分を彫琢した10年とそっくり重なっている、という点が重要である。もちろん、そうした時間的重なりがそのまま両者を近づけるわけではない。しかし、その同時代性がなければ、つまり、ワロンがもっと早く1910年代前半に心理学者となり、ヴィゴーツキーがワロンの没年を越えて生存していたとしたら、両者のそれぞれの理論の中身はいま残っている著作から私たちが知り得る内容とはかなり異なっていたのではないか。ありえたかもしれない「もうひとつの現実」を夢想するのが好きな筆者は、そのように想う。

では、1920年代後半から1930年代前半(広く考えれば、1920-30年代の20年間)の時代は、ヴィゴーツキーとワロンに何をもたらしたのだろうか。それは、実践的知能と言語的知能(ワロンの用語では推論的知能)の関係を問う時代精神ではなかったかと想う。未開社会の思考様式に関する文化人類学的知見の集積、動物心理学研究の隆盛、ソシュール言語学が切り開いた表象論的な世界の見方などが渾然一体となって、改めてこの時代に、2つの知能の関係の問題は人間科学の基本問題として意識されたのではないだろうか。

もちろん、問題を共有することは、答えを共有することではない。しかし、少なくとも、問題の共有は同じ方向をめざす第一歩である。当時の行動主義や反射学の立場からは、実践的知能と言語的知能という区別自体が偽問題とされただろうし、現在でもこの2つの知能を峻別することに大きな意味を見出そうとしない学派も多い。その中で、今回筆者は、中村さんの本を通して、ヴィゴーツキーには人間発達の理論を構想する際の根幹部分に、実践的知能と言語的知能の関係を問い、これを厳しく峻別して(その非連続性を前提として)後者の発達をこそ人間に固有の発達の問題と考える姿勢があったということを、改めて学んだ。実はこの姿勢こそ、心理学者ワロンが終生持ち続けた姿勢である。

しかし、実践的知能と言語的知能の峻別だけが、ヴィゴーツキーとワロンの共通点なのではない。筆者は、中村さんの本のおかげで、2つの関係を発達論的に考える基本発想が驚くほど2人の理論家の間で類似していることも併せて発見して、正直驚いた。中村さんが引用しているヴィゴーツキーの『新児童心理学講義』からの以下の抜粋を読むと、あたかも突然、ワロンの著書からの抜粋が挿入されたと勘違いしてしまいそうである。少し長いが再引用する。

「しかし、言葉以前にすでに道具的思考がある。実践的知能は言語的知能よりも発生的に古い。つまり、活動は言葉よりも早いし、知的活動でさえ知的言語よりも早い。しかし、いまこの正しい思想を主張する場合には、ふつう、言葉を犠牲にして活動が過大評価されているのである。ふつう、最も早い年齢に特徴的な言葉と活動との関係(活動の言葉からの独立や活動の優位性)が、その後のすべての発達段階にも、一生の間にも保持されると考えられているのである。……(中略)……このような信念は,個々の機能間の最初の関係は発達の前期間を通して不変のままであるという誤った前提に基づいている。だが、研究は逆のことを教えている。研究によって常に確認できることは、高次心理機能の全発達史は最初の機能間の関係や結合の変化であり、新しい心理的な機能的システムの発生と発達にほかならないということである。とりわけこのことは、いま私たちの関心事である言葉と活動との機能間の関係に全面的に、完全に当てはまる」(中村, 2014, pp.31-32)。

ヴィゴーツキーが「実践的知能と言語的知能」として語っている2つに対応して、ワロンは「実践的知能と推論的知能」、「直接的な運動的適応と表象を媒介とする複雑な適応」、「心的生活の実際的平面と概念的平面」など、様々な異なる表現を用いている。したがって、上の引用と同内容のフレーズを直接的にワロンの著作から引き出してくることはすぐにはできないが、上記を読めば、2つの認識レベルの異なる適応機能様式の関係を発達的に捉える視点は、2人の理論家の間で驚くほど似ているように筆者は感じる。異なる機能間の関係は発達の相のもとにおいて捉えると不変でなく変化するものであること、後に現れる機能が先行して存在する機能の意味や役割を別のシステムの中に組み込んで変えてしまうことを、ヴィゴーツキーとワロンは共に大胆に主張している。このような発達的視点からの機能連関的な問いは、諸機能の独立性とその生得性を強調する領域固有性論が優勢を占める昨今の発達研究の現状を顧みると、特に重要であると想われる。

ヴィゴーツキーとワロンの間に「実践的知能と言語的知能」の関係の捉え方に類似性があるとしても、前者は2つの知能の移行の問題にほとんど関心がなく、後者はもっぱらこの移行の問題に徹底的にこだわっているように見える。この「発生の問い」へのこだわりの違いは何に由来するのであろうか。言語は人間社会の中で何千年、何万年にもわたって蓄積されてきた文化的・社会的道具であり、個体発生的な観点からすれば、子どもの誕生時にはあらかじめ外部に与えられて存在している。そして、障害を持たない限り、たいていの子どもが自明のごとくにその言語を使い始め、自らの心的道具としていく。ヴィゴーツキーにとっては、この言語習得の出発点の問題は不思議でなかったのだろうか。いったん言語習得が始まれば、心理機能の抜本的な質的変化が起こり、やがてはその内言化によって文字通り“内的な”心の世界が生まれていく過程を見事に描いたのは、ヴィゴーツキーとその後のソビエト心理学の功績である。しかし、にもかかわらず、外部にあるものが内部に移築されるという言語習得の本質的な不思議の問題にこだわるとすると、それを可能にする子ども自身の主体の側のモメントを明らかにすることが、その後の「実践的知能と言語的知能」の関係の組み替えを考えて行く上でも必要に思えてならない。ヴィゴーツキーはこの点でどのような議論をしているのだろうか。中村さんに尋ねてみたい点のひとつである。

3.ヴィゴーツキーの「感情論」について

冒頭でも触れたが、中村さんの新著のもうひとつの新しい点は、ヴィゴーツキーの「感情論」に1章を割き、詳しく解説している点である。中村さんによると、ヴィゴーツキーは、1931年段階では自らの文化—歴史理論が「人間的な情動や愛着の文化的発達」をも語り得る理論となっておらず、主知主義的傾向を逃れ得ていないことに自覚的であったという。そのため、彼は1931−1933年にかけて、当時の心理学の感情に関する諸理論の哲学的な基盤も含めた根本的な検討を行い、それが大部な未完の草稿[1]として残されることになった。この草稿は、1984年になってやっと、著作集第6巻の中のモノグラフとして刊行され、中村さんはこの資料に依拠して、ヴィゴーツキーの感情論のエッセンスの提示を試みている。

ただ、読者がその理路を正確に追おうとすると、かなり難しい。これは、中村さんの論述が込み入っているというよりも、未完の草稿であるヴィゴーツキーの「感情論」自体の未整理や展開の不十分さによるのであろう。にもかかわらず、筆者が曲解を恐れずに敢えて中村さんの論述を要約すると以下のような内容と言えようか。

感情について論じようとするとき、当時注目を集めていた2つの理論、ジェームズ=ランゲ説(情動の抹消起源説、「悲しいから泣くのでなく、泣くから悲しい」と定式化された、情動の心理的体験に先立って生理的反応の生起を仮定する説)とキャノンらの説(情動の視床中枢説、感覚器から視床に達した刺激が大脳皮質に信号を発して情動を体験させ、同時に内蔵器官にも信号が行って心拍の上昇などの生理的反応を生ずるとする説)の検討が、ヴィゴーツキーにとっても不可欠であった。彼はまず、ジェームズ=ランゲ説を誤りとして退け、キャノンらの説の優位性を認めた上で、後者も「古い理論(ジェームズ=ランゲ説)と同様に、重要で基本的な課題―人間の感情の心理学の構築―にまったくちかづきえ」ていないと批判する。なぜなら、ヴィゴーツキーに言わせれば、後者も結局のところ、前者と同じ哲学・方法論に立脚しているからである。つまりは、両者ともデカルトの心身二元論に立脚しており、神経生理学的知見による低次な感情の機械論的説明にとどまっていて、「人間に固有な高次の感情の問題は扱いえず、回避されている」。これら2つの機械論的な因果による説明心理学的な感情理論に代わって、一方で、高次の感情の目的性や生活的意味を捉えようとして、現象的記述に徹するディルタイなどの記述的・分析的心理学が存在するが、ヴィゴーツキーはこれをも、科学の因果的説明を放棄する心理学として厳しく批判する立場をとる。

結局のところ、デカルト的二元論を克服しない限り、感情の研究が説明心理学と記述心理学に分裂している現状から、人間の感情の科学的認識を扱う心理学への道は開けないと、ヴィゴーツキーは考える。そこで注目するのが、スピノザの学説である。彼によれば、「スピノザの学説には、現代の情動の心理学が分裂した二つの部分のどちらにも存在しないもの―すなわち、因果的説明と人間の情念の生活的意味の問題の統一、感情の記述心理学と説明心理学の統一―が含まれており、それが最も深い内的な核を形成しているのである」。

では、スピノザ学説に基づく「人間の高次な感情の発達とその生活的意味を捉える唯物論的,決定論的な説明心理学とは具体的にどのようなもの」なのだろうか。中村さんのよると、この肝心な点が未完のまま、ヴィゴーツキーはその短い生涯を終えてしまったという。読者としては、何だか肩すかしをくったような感じである。

おそらく、スピノザについてもう少し知識があれば、筆者にもここから先の展開をあれこれ想像する楽しみが持てたかもしれない。しかし、残念ながら、筆者にはその知識がまったくないので、中村さんが紹介する神谷栄司氏による「ヴィゴーツキーのスピノザ理解の特質」の4点も、あまりに抽象度が高くて、よく理解できなかった。この点も、氏自身の論文に直接当たれば違うのであろうが。

さて、では中村さん自身は、「その後のヴィゴーツキーの感情論」をどのように想像したのだろうか。第3章3節がそれに当てられている。

心身二元論のデカルト的視点から考えれば、基本情動や人間の低次の身体的情動は物質的な次元に属する単なる生理学的問題であり、機械論的な因果で説明できる。しかし、精神の領域に属する高次の感情の問題は、それとはまったく別次元なので、前者と後者とをどのように結びつけるかについての手の込んだ別の論が必要になる。ところが、スピノザの場合は、心身一元論なので、感情の問題も「精神と身体の相互作用の問題として登場してはいない」。「物質と精神は存在としては同一であり、同じ1つの存在の別の仕様での現れであるから、両者の間には『序列の同一性』『因果法則の同一性』『存在の同一性』といった同一性の原則が貫かれているのである。それゆえに、スピノザにとっては、同一の存在であるものの相互作用などといった問題は、最初から設定されようのない問題だったのであろう。」

ここまでだけであったなら、筆者は何か狐に包まれたような気分になったであろう。かつて若い頃、実験心理学の研究室に在籍し、そこで読んだW.ケーラーの「心理=物理同型論(isomorphism)」を思い出した。その頃は同型論の意味がよくわからないままであったが、いまなら筆者は次のような疑問をもつ。つまり、心理現象と物理現象が「同じ1つの存在の別の仕様」であることは間違いないとしても、それが「別の現れ」をするからこそ、「現れ」どうしの関係の問題はやはり問いとしては残るのではないだろうか。例えば、昨今の認知科学における「クオリア問題」は偽問題なのであろうか。これを偽問題とする立場は、容易に心理現象の生理過程還元論へと行き着いてしまうように思う。したがって、心身一元論は正しいとしても、心理現象と物理現象との関係の問題は、「視点の移動による問題自体の消滅」という事態にならないのではないだろうか。スピノザの立場をケーラーの同型論と同一視することには、おそらく問題があるだろう。それでも、筆者はこのような疑問を禁じ得ない。

ただ、中村さんは上記のスピノザの哲学的立場の指摘に止まらないで、さらに一歩踏み込んだ推論を行っている。ヴィゴーツキーのスピノザ評価で重要なのは、「感情ないし情動の歴史的発達」という視点であって、さらに「感情の問題はひとり感情だけの問題ではなく、他の心理機能(とりわけ思考)とのシステムの問題である」とスピノザが捉えていた点に、ヴィゴーツキー自身のあり得たかもしれない未来の感情論の基本方向があったと、中村さんは推測している。私たちの日常的な感情の多くは社会的な関係の中で生じ、また、その社会的関係とそれを受け止め表出する主体の側の感情的様式自体は、歴史−文化的な彫琢の賜物である。さらに、思考による感情の統御や、4章で触れられているような感情的経験を取り込んで言葉の「意味」が豊かになり、知的な理解も深まるといった関係が、感情と思考との間にはある。感情を包含した、こうした意識の発達のシステム論の構築こそ、ヴィゴーツキーがスピノザから学んで目指した方向性であると、中村さんは結論している。

筆者は、一度読んだだけではその理路をすっきりとつかめなかったが、このように整理してみると、中村さんのヴィゴーツキー「感情論」の捉え方は見事であると思う。この「感情論」の具体的な展開のひとつが、『言葉と思考』の第7章で行われている「内言の意味論の分析」であったとして、新著の次の第4章の「なぜ内言の意味なのか」に繋げていく構成も、筆者はここまできてやっと理解できた。

中村さんのヴィゴーツキー「感情論」の紹介の「見事さ」に疑問を付け加えるのは、野暮というものだろう。しかし、敢えて感想とも疑問ともいえない筆者のコメントを以下に述べて、この長い書評を終わることにしたい。

中村さんの新著のヴィゴーツキー論を読んで、筆者の今までの生半可なヴィゴーツキー理解はかなりまともになったように思う。ワロンをいくらか読んできた筆者からすると、これまで気づかなかったワロンとの共通性についても、多くを教えられた。ただ一方で、ヴィゴーツキー自身が自覚し、筆者も以前から感じていた彼の理論の主知主義的傾向という印象は、今回、中村さんによる「感情論」の紹介を読んだあとでも、完全には払拭されなかった。それはなぜだろうか。ひとつには、ヴィゴーツキーが感情を思考と一体のシステムとして語るとき、どうしても、システムの均衡は理性による感情の制御という側面にあると想定しているように思えてしまうからである。別の言い方をすれば、感情の洗練と同時に解放という側面はどのように論じたらよいのだろうか。感情の解放が問題になること自体、システムの歪みの反映にすぎないのだろうか。ヴィゴーツキーは、感情にまつわるさまざまな「歪み」の問題をどう考えたのだろうか。ヴィゴーツキーの「感情論」は臨床的問題にも十分答えを用意できる方向に発展し得ただろうか。

ワロンは、今でいう発達障害の子どもたちと接する臨床活動の中で情動と感情の問題を考えた人であったが、ワロン的な情動と思考の一体的システムとヴィゴーツキーの構想したであろうシステムとは、かなり違ったものであるような気がしてならない。筆者にとっては、この点について考えることが、筆者自身の課題であるワロンの発達論を深めていくことに繋がるであろう。

[1] ヴィゴーツキーの草稿のタイトルを中村さんは「情動に関する学説」と訳し、2006年に刊行された神谷栄司氏らによるこの草稿の邦訳タイトルも『情動の理論―心身をめぐるデカルト、スピノザとの対話―』となっていて、「感情」でなく「情動」という語が用いられている。ロシア語に読めない著者には、「情動」と「感情」が異なる語であるのか、異なる語であるとしたら、ヴィゴーツキーがどのように使い分けたのかが、分からない。中村さんは、ご自身の論述の中ではもっぱら「感情」という語を用いておられるので、ここでは常識的に、「情動」は人間が他のほ乳類と共有する恐れ、怒り、快、不快などを指し、「感情」は「情動」から派生し文化的、歴史的に洗練された人間に固有の心理的体験をさすと理解することにする。そして、中村さんの論述にしたがって、発達論的に「感情」の問題を考えようとすれば当然「情動」を視野に入れることになるので、もっぱら「感情」の語は、「情動」をも含む意味で使用する。

Yoshinobu Kato

最近、「らじるらじる」というNHKラジオ番組を聴いています。お気に入りは「大竹しのぶのスピーカーズ・コーナー」と「高橋源一郎の飛ぶ教室」です。

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