| 臨床心理学が専門ではないので、臨床系の本はあまり読まないのですが、中井久夫さんと、名古屋市立大学でそのお弟子さんであった滝川一廣さんの著書は、ほとんど読むようにしてきました。特に後者の滝川さんは、前者の中井久夫さんのように仰ぎ見る存在ではなく、私と同い年ということもあり、何となく一方的に親近感を抱き続けてきた存在でした。ここで取り上げる本が出た直後、懇意にしていただいているB先生が滝川さんとの会食に誘ってくださったことがあります。願ってもない機会でありながら、その日は当時の勤務校での予定と調整がつかず、断腸の思いでお断りせざるをえませんでした。以来、面識のないままですが、今でも滝川さんという同世代の素晴らしい書き手がいることは、私の大きな励みになっています。 書評掲載誌:生涯発達研究, 第6号, 91-92, 2014年. 書誌情報:滝川一廣,『子どものそだちとその臨床』,(2013年),日本評論社, 定価2000円.ISBN978-4-535-80433-3 |
大人の精神障害や子どもの発達障害について、滝川一廣さんは既にたくさんの新書版の本を出している。筆者はたまたま、そのうちの1冊を読んだことがきっかけとなって、滝川さんの新しい本が出版されれば、必ず購入して読むようになった。いわば、追っかけの一読書ファンである。滝川さんの本の何が私を惹きつけるのだろうか。まず、滝川さんは筆者と同年の1947年生まれである。したがって、その本の行間に見え隠れする団塊の世代の“時代の刻印”を、筆者が敏感に否応なく感じ取ってしまうということがあるだろう。しかし、同じ時代を共有してきたからといって、その誰に対しても常に共感が生まれるとは限らない。ときには、同世代の人たちの中に、自分のなさけない、醜悪な姿を、拡大鏡で見せられるということもある。ところが幸いにして、滝川さんの文章の中から立ち上がってくるのは、団塊の世代の中でもいちばん良質の、爽やかな姿である。滝川さんの本には随所に深い知恵が隠されている。それはおそらく、時代の困難と常に向き合いながら、だからといって大声を上げて興奮したり、反対に心をすぐに萎えさせたりせず、謙虚に淡々と日々の臨床実践を何十年も積み重ねる中でしか得られなかった知恵なのであろう。そういう知恵に乏しい筆者には、同世代の滝川さんが何ともカッコよく見える。
昨年出版された『子どものそだちとその臨床』は、特に滝川さんが発達障害をめぐって積み重ねてきたユニークでかつ深い思考を知るのに、恰好の書物である。では、滝川さんの発達障害をめぐる思考の何がユニークなのか。それは、発達障害そのものを文字通り徹底して発達論的視点から捉えようとする点にある。“発達”の障害では、常に「発達」が問題になるのは当たり前のことだろう。そうすると、「発達障害を発達論的視点で捉える」という言い方自体、同語反復との誹りを受けそうである。しかし、実はそうではない。
発達障害をめぐっては、近年、特性論的な捉え方が優勢になってきている。特性論的な見方とは、発達障害の子どもたちにはそれぞれの障害の発現の仕方に応じた、定型発達の子どもたちとは異なる固有の特性が備わっており、その特性には脳の特定部位あるいは特定神経ネットワークの機能不全が対応しているという考え方である。この考え方にしたがえば、脳の機能不全が遺伝的要因に由来するにしろ環境的要因に由来するにしろ、その実体解明が当然もっとも重要な課題となる。同時に、その解明が十分進まない段階でも、並行してそれぞれの特性に応じた支援のあり方が探求されることになる。自閉症の場合を一例として挙げれば、この障害を他者の心を理解する(脳の)仕組みの障害とみなして(「心の理論」欠陥仮説)、その仕組みの解明やその仕組みの欠陥を補う社会的スキルのトレーニングの開発を重視する立場が、これにあたると言えよう。確かに、発達障害の人たちの当面の社会的な適応に資する条件づくりを、個人の側と環境の側の両方できめ細かく進めていこうとすれば、このような立場をとることにも利点がある。しかし、こうした特性論的な立場には、定型発達児の発達から発達障害児を切り離し、いつしか発達障害の“発達”部分を個別領域のスキル学習に置き替えてしまう危惧がつきまとう。“発達”の障害を語りながら“発達”が後景に退き、当座の“障害”だけが前景化してそれに対する処方箋のみに目が行ってしまう危険が伴う。
滝川さんの発達障害の見方は、これとは大きく異なる。滝川さんは次のように言う。
「私は、学界の主流とは少し違う仮説をもっている。『発達障害』の本質とは精神発達の相対的なおくれであり、通常の平均的な発達(定型発達)と連続性をもっており、決して『異質』のものではないのではないか。そして、脳になんらかの生物学的な不全があったり、虐待のような養育の過度の不全があったりすれば、それらが発達の足を引っぱる負荷要因となって、発達のおくれをもたらしやすくする。しかし、そうした負荷要因がない場合でも、自然の個体差(正常偏倚)として、発達のおくれは一定の割合で必ず生じざるをえないのではなかろうか。」[1]
このように引用すると、滝川さんの発達障害観はある種、宿命論的な色合いを帯びているように誤解されるかもしれない。しかし、ことはまったく反対である。滝川さんは、発達障害と定型発達との間には連続性があり、前者はけっして「異質」な特性ではないことを強調する。その上で、生物学的な不全も養育上の過度の不全も、発達のおくれをもたらす多様な負荷要因の一部とみなす。確かに、こうした不全は大きなハンディであることに間違いない。しかし、ハンディがたとえ病理的なものであったとしても、それは「あくまで遅れの生じる確率を高める非特異的な負荷要因であって、精神遅滞や自閉症を直接に決定づける病因ではないと考えるべき」と、滝川さんは言い切っている。
多様にして個々にはその程度も異なる負荷要因は、特に受精から誕生、さらには発達初期を通じて、誰にとってもランダムに現れる可能性を有している。たまたま、背負い込んだ負荷要因が病理的であったり、複数の負荷要因の組み合わせがマイナスの相乗効果を生んで、それが結果として発達障害に繋がることがあるとしても、それが「たまたま」であるのは、定型発達の子どもが「たまたま」そうした負荷要因をうまく回避できているということとコインの裏表の関係にすぎないことになる。また、「たまたま」であるからこそ、療育の方法論は、子どもと大人、子どもどうしの豊かな相互的かかわりを保障する中で、プラスの「たまたま」が生まれる契機を創り出すことに主眼が置かれるであろう。
滝川さんの発達障害観には、定型発達との連続性を踏まえた、文字通りの“発達”的見方が骨太に押さえられている。そして、その発達のプロセスは「個々人の感覚器官が直接に感受したまま世界を個的に体験してゆくこころの働き、つまり感覚の直接性を、しだいに背後に退かせていくプロセス」であり、同時に「意味や関係を通して世界を共同的に体験(p.102)」[2] できるようになっていく可能性の広がりとして、大局的に捉えられている。ここから、発達障害を社会歴史的視野からも俯瞰的に眺める視点も生まれてくる。
滝川さんの本の魅力を十分伝えられないのがもどかしいが、発達という不思議な現象、あるいは発達障害に関心をもつ若い人たちにはぜひ本書を一読していただきたい。
(KY)
[1] 滝川一廣 (2013) 子どものそだちとその臨床 日本評論社 p.ⅳ
[2] 滝川一廣 (2004) 「こころ」の本質とは何か―統合失調症・自閉症・不登校のふしぎ ちくま新書
