2008年4月

書 名 感性の起源
著者名 都甲潔
出版社名 中公新書(2004年)

 

著者の都甲潔さんは、バイオエレクトロニクスという新しい学問の最先端を走る研究者です。味や匂いといったおよそ主観的な感覚世界を客観的な指標で表現することを目指し、さらにはその測定センサーの開発を仕事としている人です。生物の感覚器官は刺激の性質に応じてそれらを弁別するように発達してきたわけですから、刺激の物理的特性や強度の組み合わせでさまざまな感覚体験が決まると誰もが考えるでしょう。しかし、どうも事はさように簡単ではないようです。著者によると、例えば麦茶に牛乳を加え砂糖を入れるとコーヒー牛乳の味になるそうですが(一度試してみてはいかが?)、麦茶とコーヒーでは含まれる化学物質に相当大きな開きがあります。そうすると、人間の味覚の側に、物質界の秩序そのものの反映ではない、複雑な化学物質の構成を独特の仕方で分節する仕組みがあることになり、人間の個々の感覚器官に対応する感性を構成している次元とは何なのかを科学的に探る必要性が生まれます。本書の後半では、とくに味覚や嗅覚に関してのこのような探究が紹介されていて、当の私たち自身ですら自覚的でない、人間の感性の基盤について多くのことを学ぶことができます。特に、視覚や味覚にはその感性のモダリティに特化したことばがあるが(例えば、視覚は赤い、明るいなど、味覚は甘い、酸っぱいなど)、匂いにはそれがなく、他の感覚からの借り物か(さわやかな、濃厚な、など)、具体的なものを表すことばを使う(りんごの匂い、バラの香りなど)という指摘に、私はアッと驚きました。それがなぜなのか、匂いという感性を具体物に還元しないで、比較的少数の次元で表現することは可能か、といった問題をもっと知りたければ、ぜひ本書をお読みください。

現代科学の最先端で行なわれている上記のような仕事が、文系の該博な知識もまじえて語られる本書の後半も魅力的ですが、私はそれ以上に、前半で語られる生物にとっての「感性」なるものの発生的起源の話に、心理学者として大きな刺激を受けました。例えば、粘菌のような単細胞生物(集まって細胞集合体となり、多細胞の生物にもなる)では、細胞膜(体表)によって外部と内部が隔てられていますが、外部から体表にやって来る刺激には内部の維持に都合のよいものもあれば、都合の悪いものもあるはずです。そうすると、このような原始生物でも、生き延びるために両者を選別して、それぞれに異なった反応をする原初的な仕組みが備わることになります。粘菌の場合は、酸味のある化学物質を忌避する反応のあることが知られていますが、この場合の「反応」とは、体表の刺激部位から内部の原形質流動が波のように広がっていき、それが粘菌全体の形状を変えて、結果として酸味刺激から離れることをさします。そう、粘菌は酸味刺激が「嫌い」なのです。この体表面での刺激の弁別受容と生物内部での変化こそ、感性の起源であると著者は主張します。体表面に目や耳や鼻などの感覚器官と手足などの運動器官(外壁系あるいは感覚―運動系と言います)が高度に分化した人間のように複雑な生物であっても、基本は同じであって、私たちが何かを感じるということは、必ず外部刺激の弁別と、その反響としての身体内部の内臓器官や平衡器官(内臓系あるいは情動―姿勢系と言います)の変化の両方を(そのどちらかがどんなに微細なものであったとしても)同時に体験することなのです。私は、自分の心理学研究のテーマとして、「認知と情動(あるいは理性と感性)」の発達的関係について長い間、考えてきたのですが、この本の前半部分を読むことによって、思わぬヒントが得られたような気になりました。

このほか、生物学者や解剖学者が書いた類書に、『心の起源』(木下清一郎、中公新書)、『胎児の世界』(三木成夫、中公新書)があります。いずれも新書の中ではかなりむつかしい本ですが、人間の心の発生を全地球史的視点から語っており、目を見開かれる思いがします。とくに後者は深い生命哲学を背後に有し、名著の誉れ高い本です。

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Yoshinobu Kato

最近、「らじるらじる」というNHKラジオ番組を聴いています。お気に入りは「大竹しのぶのスピーカーズ・コーナー」と「高橋源一郎の飛ぶ教室」です。

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