2008年11月
| 書 名 | モーツァルト |
| 著者名 | ピーター・ゲイ |
| 出版社名 | 岩波書店(ペンギン評伝双書;2002年) |
10月28日に、60年余の本学の歴史上初めて図書館コンサート「蕪村とモーツァルト」が開かれます。なぜ「蕪村とモーツァルト」なのか、この二人の取り合わせを不思議に思う人も多いことでしょう。実は二人は18世紀後半を重なって生きた同時代人なのです。江戸時代までの日本史を世界史と重ねて考える習慣がまったくなかった私には、まずこの事実がとても新鮮でした。それから、モーツァルトが16歳のとき作曲したディヴェルティメントK136-K138(私の大好きな曲です)を聴く度に、なぜか蕪村の「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」という句が思い浮かぶようになりました。どちらにも、ずっと後の19世紀後半や20世紀前半の若い芸術家たちが共有することになる「青春の無垢な明るさの中の憂い」とでも名付け得る感性を見出すからでしょうか。ユーラシア大陸の東と西の果てに生きて、互いのことをまったく知ることもなく一生を終えた二人が、近代の先駆けとなる同質の新しい感性を生み出したことが奇跡のように感じられます。
蕪村についても、モーツァルトについても、これまでたくさんの本が出版されています。何を読んでよいのか、迷ってしまいますが、後者に限って言えば、小林秀雄のモーツァルト論(新潮文庫『モーツァルト・無常という事』)があまりにも有名です。敗戦の翌年(1946年)に書かれたこの小論は、後に日本語で書かれたモーツァルトに関するあらゆる言説に影響を与えたと言われています。「モーツァルトのかなしさは疾走する。……空の青さや海の匂ひの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』といふ言葉のようにかなしい。」といった小林秀雄独特の美しい呪文のような文章に、多くの読者が参ってしまい、日本では以来、短調のモーツァルトがもてはやされる端緒となったとされています。ただ、散文的な精神の私には、この小論で小林は何を言いたかったのか、未だによくわかりません。また、モーツァルトという天才その人について知りたいと思う人には、この小論はまったく不向きです。
私のお薦めの伝記は、ピーター・ゲイの『モーツァルト』です。200ページ弱の手頃な分量の中にモーツァルトの一生が過不足なく描かれていて、主要作品についても、その曲の作られた背景と音楽的発展の軌跡をたどることができます。さらに、ピーター・ゲイはフロイト伝の大著(『フロイト(1、2)』、みすず書房)もある精神分析をバックボーンとする歴史家ですから、この伝記を「父と子の葛藤の物語」として描いている点がユニークです。神童ともてはやされ父の期待を早くから一身に担ったモーツァルトは、やがて長じて父に反抗し、一方でそのことに罪悪感を感じつつ、父との長い確執の中で苦悶し疲れきっていく生涯をおくることになります。それは、多くの凡人に起こり得る「父と子の物語」ですが、モーツァルトが天才である所以は、にもかかわらず、あのように澄明な美しさに満ちた珠玉の曲の数々を作り続けたということでしょう。それこそが奇跡であることを、ピーター・ゲイは説得的に語っています。
新書や文庫で手軽に読めるモーツァルトの伝記あるいは音楽論には、他に吉田秀和『モーツァルトを求めて』、中野雄『モーツァルト 天才の秘密』、小塩節『モーツァルトへの旅』などがあります。吉田秀和の本は、美しい日本語による明晰なモーツァルト論です。小塩節はドイツ文学者で、モーツァルトの誕生の地ザルツブルクについて知るには最適の本です。
