2009年1月

書 名 羊の歌 /  続 羊の歌
著者名 加藤周一
出版社名 岩波新書(1968年)

 

日本の戦後を代表する知識人であった加藤周一さんが昨年12月5日に亡くなりました。89歳でした。私にとっては、20代前半から40代前半まで文字通り「私淑する(直接教えは受けたことがないのに、ひそかにその人を師として尊敬し、模範として学ぶ)」という表現にふさわしい人であっただけに、12月6日の朝日新聞夕刊一面の死亡報道を目にした時には、感慨も一入(ひとしお)でした。英独仏の外国語を自由に読み話し、和漢の古典にも通じて森羅万象を明晰に語ることのできた、日本には数少ない百科全書的な知識人=generalistであった加藤周一さんに、私は憧れました。今にして思えば、そのことは、研究者=specialistの道を歩んだ私にとってむしろマイナスに作用したと言えるかもしれません。20世紀後半以降の複雑・多様化する社会の中にあって、普通の人間にできることは、specialistになるために限られた知的資源を職業生活に集中することで、generalistというポジションは加藤周一さんのような大きな器の人にのみ許された特権だったことが、今なら分かるからです。しかし、私はこの種の「憧れ」に取りつかれた青年期・中年期を悔いてはいません。彼の膨大な著作群と出会わなければ、私の人生は今よりももっと貧しいものであったでしょう。それほど大きな存在であった加藤周一さんへの「お別れ」の意味もこめて、彼の代表作の『羊の歌』、『続羊の歌』を今月は紹介します。

加藤周一(以下敬称略)はその著作の中で私事を語ることに驚くほど禁欲的であった人です。それは、成熟した知的関心は内側の「私が何者であるか」や「私がどう感じるか」を語ることに向けられるべきでなく、外側の「対象が何であるか」や「対象はなぜかくあるのか」に向けられるべきと彼が考えていたからであろうと思います。人生の前半(30歳ぐらいまで)を自然科学者(血液学)として生きたことも、この姿勢と関係しているのかもしれません。その彼が、40代の後半になって初めて(そしてそれが最後でもあったのですが)、自分の人生の来し方を語ったのが、『羊の歌』とその続編『続羊の歌』です。それは、人生の後半の入り口にさしかかって「懐旧の情」がにわかに湧いたからでなく、「私」を標本としてこのような「日本人が成り立ったのは、どういう条件のもとであったのか」を明らかにするためであったと、「あとがき」では説明されています。つまり『羊の歌』は、自らの「感覚的・主観的な世界」を主観的にたどり直す感傷的な自己確認のためでなく、この「感覚的・主観的な世界」を対象化し、その客観的な成り立ちを自己認識するための試みでした。おそらく、この本が他のどんな自伝とも異なるのは、このような厳しい姿勢に貫かれて「私」が語られているという点にあります。

前半の『羊の歌』では、東京の山の手の医者の家に生まれた著者が小学校5年から飛び級して東京府立一中に入り、一高、東大に進み、戦争中に医学部内科教室の副手となって敗戦を迎える26歳までの半生が語られています。これだけの経歴を目にしただけでも、雲の上のエリートの自伝のようで、凡人の私たちは読む気を殺がれてしまいそうですが、そこに自負や驕りなどの嫌みな印象を少しも感じないで読めるのは、上で述べた著者の自己への厳しい距離の取り方があるからだろうと思われます。むしろ、幼いときの友だちに対する小さな裏切りへの自己嫌悪や、クラスで優等生を競っていた相手が大工の息子で、家では目いっぱい仕事の手伝いをしていて、恵まれた自分との競争が全くフェアな競争ではなかったことを知ったときの後ろめたさなどが丹念に語られているのを読むと、後年の著者が怜悧な知性だけの人でない、優しさの人でもあったことに読者は納得し、好感をもつことでしょう。

後半の『続羊の歌』では、敗戦直後の広島での原爆被害調査団の一員としての経験、フランス留学、西欧文化の発見、厳しい東西冷戦の現実、恋愛、帰国後の日本文化への関心、医学を捨てて文学の道を志すまでが語られます。ここには、文化の多様性への関心を広げて大知識人へと育っていく加藤周一その人の姿が描かれています。

加藤周一を系統的に読みたい人には、『加藤周一著作集』全24巻(平凡社)があります。代表作『日本文学史序説』と『日本美術の心とかたち』もこの著作集に入っていますが、私のお薦めは、後者の著作をジブリLibrary社がカラー図版を多数入れて出版した『日本 その心とかたち』のほうです。美しい絵を見ながら日本美術の明快な通史に親しむことができます。なお、著作集には入っていない最後の著書『日本文化における時間と空間』(岩波書店)もすばらしい本です。

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Yoshinobu Kato

最近、「らじるらじる」というNHKラジオ番組を聴いています。お気に入りは「大竹しのぶのスピーカーズ・コーナー」と「高橋源一郎の飛ぶ教室」です。

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