2008年10月
| 書 名 | したたかな生命 |
| 著者名 | 北野宏明・竹内薫 |
| 出版社名 | ダイヤモンド社(2007年) |
9月はとても悲しい月となりました。児童教育学科の早水サヨ子先生と近藤郁夫先生が相次いで亡くなられたからです。同じ学科の教員として、両先生の温かい人柄に身近に接してきた私にとっては、断腸の思いです。共に定年までの年月をまだ相当残して、今の平均寿命からすれば随分若くして亡くなられたことを考えると、人のいのちの不公平さを思わずにはいられません。私は引き続きこの世界に留まっていて、どうしてお二人がもういないのか、なにかそのことがまったくの偶然のような気がするし、とても不思議に感じられます。改めて、いのちとは何だろうか、死とは何だろうか、と考えてしまいました。
おそらく文学や哲学は、こうした不条理感に支えられた解き難い問題にそれぞれが納得する答えを見出そうとする営みでもあったのでしょう。ここでそうした本を紹介することもできるのですが、それでは気が滅入るばかりなので、今回は、生命現象の不思議を脆さと頑健さ(fragilityとrobustness)という観点から論じたシステム・バイオロジー(system biology)の本『したたかな生命』を紹介することにします。
システム・バイオロジーとは、登場してからまだ10年に満たない、「生命をシステムとして理解」しようとする新しい学問です。著者たちはこの学問に立脚して、生命現象の不思議を次のように読み解こうとします。
複雑なシステムである生物は、変化する環境の中で生きている限り、外部からの撹乱(かくらん)に対してその内部機能を維持する仕組み(つまり、生命を維持する仕組み)を備えています。著者たちは、特に幅広い撹乱に対応できる生物の能力を「ロバストネス(したたかさ、頑健さ)」と呼び、これを向上させるには大きく四つの方法があると考えました。つまり、システム制御、耐故障性、モジュール化、デカップリングです。一つ目のシステム制御とは、安定した状態に撹乱が生じたとき、その差分を検出して入力にフィードバックし、その差を修正して元に戻していく方法で、室温を調整するサーモスタットのようなものを考えると理解できます。二つ目の耐故障性とは、撹乱によって故障が生じた場合、それに代わって働く別の仕組みを用意しておくことを指します。リレーで走者の一人が怪我で出場できなくなったときに控えの選手が代わって走るような場合をイメージすればよいのかもしれません。三つ目のモジュール化とは、生体の一部に不具合が生じた場合、それが全体に波及しないで被害がその一部だけで食い止められるようになっている構造のことをいいます。池の小さなボートは底に穴が開けば全体に水が入って沈んでしまいますが、大きなタンカーは船倉が幾つにも区分されていて、一ヵ所に浸水しても、他に波及しない構造になっています。こうした構造が、生命維持に都合がよいように生体にも備わっていると考えられます。四つ目のデカップリングの説明は省略しますが、発達心理学者としての私に大きなヒントとなったのは、この三つ目のモジュール化です。
発達心理学では1980年代から、子どもの発達には個々の機能領域の全体を貫く法則性や一般的段階が存在するという立場と、そのようなものは存在せず、あるのは個々の機能領域ごとの有能さの獲得にすぎないとする立場の対立が続いてきました。後者はモジュール論とも呼ばれ、私自身はこの見解に批判的なスタンスをとってきたのですが、個別機能領域が相対的には独立に発達する場合もあるというモジュール論に有利な事実を、子どもの発達をひとつの全体システムとして見る観点の中にどう組み込んだらよいか、苦慮してもきたのです。それが、生命というひとつのシステムの中で、ある器官部分や個別機能領域がモジュール化されていることが、かえって外部からの撹乱という生体の危機に際しては全体の防御に役立つ、ということをこの本によって教えられ、目から鱗の落ちる思いでした。生命現象と子どもの心理発達をすぐにアナロジーで結びつけることには問題があるにしても、研究上の重要なヒントが得られたことは間違いありません。
さて、この本が本当に優れているのは、もうひとつ別の点にあります。それは、ロバストネスの向上は実は別の面で、システムの脆弱性(フラジリティ)を否応なく生み出してしまうという事実を豊富な事例で説明している点です。例えば、癌(がん)は大きくなるとその塊の中心のほうには血管が入り込みにくくなるので、癌細胞は酸欠や栄養不足になり、さすがに増殖できなくなるといいます。ところが、そのとき、われわれの身体のどこかが酸欠状態にあることを察知すると働く遺伝子が自動的に過剰発現して、新しい血管を作って酸欠を解決してしまうのです。その結果、癌細胞は再び増殖をはじめます。しかし、もとはといえばこの遺伝子は、高地で生活したり、肺の機能が悪くなったときに生ずる酸欠に対応するための、ロバストネスを高めるメカニズムでした。それが癌の場合には、生体全体のフラジリティ(脆弱性)を促進する役割を果たすことになってしまうわけです。
このように、この本は、「頑健と脆弱」、「強さと弱さ」の関係について、生命の基本的な原理について、とても深いことを教えてくれているように思います。
早水先生と近藤先生は、共に癌で亡くなられました。お二人の身体の中で、「頑健と脆弱」の壮絶な戦いが繰り広げられていたであろうことは、想像に難くありません。にもかかわらず、お二人は最後まで生きる希望を失わない気丈さを、私たちに示してくれました。私はそのことに深い敬意を感ぜずにはいられません。両先生のご冥福を心よりお祈り致します。
