2008年7月

書 名 La honte
著者名 Annie Ernaux
出版社名 Gallimard (Collection Folio)

 

アニー・エルノー(Annie Ernaux)という作家をご存知でしょうか?1940年にフランスはノルマンディ地方の田舎町の小さなカフェ兼食料品店の娘として生まれ育ち、長じて大学を出て高校の文学の教師となり、1970年代半ばから自伝的小説を次々に発表するようになった現代の作家です。日本では1993年にはじめてその作品が紹介され、現在、6冊の邦訳書が出ています。二番目に出た小説『場所(La place)』を読んで以来、私にとってこの作家は特別な存在となりました。

フランスの小説というと、パリの、あるいは地方の中心都市の富裕層や知識階級の世界が描かれるのがふつうでした。19世紀以来フランスでは(そしてヨーロッパの他の国々でも)、小説というジャンルは、都市の中産階級以上の読者に向けて知識階級に属する書き手が生み出す商品という性格を有していましたから、このことは当然のことでした。しかし、その自明なことが、明治以来、遠い東洋の島国で翻訳を通して彼の国の小説を読んできた私たちに、必ずしも認識されていたとは言えません。私も例外ではありませんでした。

アニー・エルノーの小説を読んで心底びっくりしたのは、この点に関わります。父の一生を振り返った小説『場所(La place)』、母の生涯を描いた『ある女(Une femme)』、そして、翻訳はまだなく、ここで紹介する『La honte』(適切な訳が思いつきませんが、「恥ずかしく思うこと」あるいは「汚点」が近いでしょうか)は、いずれも、他のフランス近現代小説に登場する人々とはまったく違った階層に属する人々の世界を描いています。

『La honte』は、アニー・エルノー自身の12歳のときの衝撃的な出来事の回想から始まります。6月の晴れた日曜の午後、母の小言がきっかけとなり、普段おとなしい父がカッとなって鉈(なた)を振り上げ母を殺そうとします。怒鳴り声と叫び声、その後に続く果てしない母と娘のすすり泣き、そのときから12歳の少女の心の中に芽生えた、自分の家族や自分の属する階級を深く恥じる感情こそが、この小説の中心主題です。優秀な学業成績によって両親の生活世界から離れ、今はパリ近郊に住む知識階級の一員となった作家にとって、この出来事は遠い過去のことですが、そのとき以来、身体の中に深く巣食うことになった感情は今も過去形では語りえないものなのでしょう。その感情の由来を探るために、作家はかつて自分の育った生活世界を、克明に記述しようと試みます。小説の前半は、1952年のフランスの田舎町(人口7000人)の生活のエスノグラフィー、後半は子ども時代に通ったカトリック学校の生活描写が中心となって、12歳の少女の生きた日常世界が次第に浮かび上がっていきます。ただ、アニー・エルノーは、凡百の小説家がするようにノスタルジックに子どもの心象世界を語るようなことは、決してしません。12歳の少女が何を感じ何を考えたかでなく(その再現は原理的に不可能なはずなのに、可能であるかのようにそれを〔それのみを〕試みている自伝小説がなんと多いことでしょう!)、1952年の少女を取り巻く世界がどんな経済的・物質的条件に制約され、どんな生活規範、言語環境、社会的事件、流行、娯楽を人々が共有する世界であったかを、詳細かつ淡々と語っていきます。そして、そこに現れた世界は、驚いたことに、私がかろうじて記憶の中に留めている1950年代の日本の田舎町の小宇宙にそっくりなのです!大人も子どもも標準語から遠いことばを話し(アニー・エルノーの父は、しばしばavoirやêtre〔英語のhaveとbe動詞に相当〕の活用を間違えたといいます)、町内のどの家の事情も互いに筒抜けで、水洗トイレはおろか水道もなく、庭で鶏を屠っていた生活、住民のほとんどが団体旅行や修学旅行でしか自分の町を離れたことがなく、互いに親密ではあっても、外の広い世界の存在を知りはじめた若者にとっては息の詰まるような世界。これは、あまりに私が肌で知っている「前近代の日本」に近く、観念の上で憧れた「個人と個人の契約からなる近代市民社会としてのフランス」からは遠い世界です。フランス社会が均質な近代社会でなく、20世紀を通じて前近代的なものを斑(まだら)のように農村や地方の小都市に残しながら発展を遂げた資本主義社会であること、そして、それはそっくり日本社会が少し遅れてたどった道であることを、私は改めてこの小説を通して教えられました。アニー・エルノーは、フランス近現代小説の中心舞台からはずれた階級の生活を描くことによって、かえって世界的には普遍的に見られる社会や人間のあり方を描くことができた、稀なフランス人作家と言えるでしょう。

アニー・エルノーの小説のフランス語は、構文やレトリックの水準から言えば決して難解ではありません。しかし、かなりの語彙力がないと読めません。私も電子辞書を傍らに置いて読みました。したがって、『La honte』の前に、翻訳のある『場所(La place)』や『ある女(Une femme)』(邦訳はいずれも早川書房、原著はいずれもGallimardのCollection Folio)を原著で読むことを薦めます。

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Yoshinobu Kato

最近、「らじるらじる」というNHKラジオ番組を聴いています。お気に入りは「大竹しのぶのスピーカーズ・コーナー」と「高橋源一郎の飛ぶ教室」です。

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