2009年2月

書 名 喪失と獲得―進化心理学から見た心と体―
著者名 ニコラス・ハンフリー
出版社名 紀伊国屋書店(2004年)

 

私が専門とする心理学の世界では、1990年代半ばに「文化心理学」と「進化心理学」というまったく新しい研究領域が生まれました。前者はテストや実験を主なる方法として用いる現在の心理学を批判し、数量的な比較よりも特定の文化的文脈の中での人間行動の厚い質的記述を重視しようとする心理学で、日本の研究者にも多大の影響を与えて今日に及んでいます。これに対して、後者は人間の心的機能の発生的起源を進化論の原理に基づいて問い直し明らかにしようとする心理学で、動物行動学(とりわけ霊長類研究)、遺伝学、脳科学、考古学などとの活発な研究交流によって急速な発展を遂げています。つまり、21世紀に入ってからの心理学の世界では、「人文学への回帰」と「いっそうの自然科学化」という一見相反する二方向の流れが同時進行しており、今後これらがもっと大きなパラダイム転換に繋がっていく可能性も否定できません。

そうした混沌と豊穣の時代の現代心理学の世界をちょっと覗いてみたいという人々に、私はニコラス・ハンフリーの『喪失と獲得』を勧めたいと思います。この本は、副題を見てわかるように、上記二つの流れの一つ、「進化心理学」において今熱く議論されている諸テーマを、一般の読者にも分かりやすく、かつ著者自身の深い洞察を交えて論じた本です。ここではその一例を紹介してみましょう。

社会性とコミュニケーションの障害、それに言語発達遅滞が加わった自閉症については、今では誰もが耳にしたことがあるはずです。この自閉症の人たちの中には、ときどき驚くべき能力を発揮する人たちがいます。100年前の何月何日の曜日をすぐ答えることができたり、9000冊の本を丸暗記し暗唱することができたり、こうした事例は世界各地で報告され、サヴァン症候群と名付けられてきました。とりわけ子どもでは、ナディアという女の子の例が有名です。この子は重度の発達遅滞で、6歳になっても言葉を発することができませんでした。ところが、3歳のときから並はずれた描画の才能を発揮しはじめ、5歳のときには驚くべき写真的正確さで躍動感あふれる動物や人間の絵を描くことができました。どのような絵かご覧になりたい人は、以下のアメリカの科学雑誌『Discover』のサイトに公開されていますので(http://www.centreforthemind.com/publications/Discover2002.pdf)、覘いてみてください。『喪失と獲得』の中で、ハンフリーはこのナディアの絵が人類初期の洞窟絵画と似ていることに注目し、両方の謎に迫ろうとします。ナディアは幼くしてなぜこのような絵を描き得たのか?洞窟絵画は現生人類がその初期から優れた芸術的素養をもっていた証拠なのか?この2つの問いに、ハンフリーは私たちの常識に反する仮説によって答えようとします。答えの鍵はナディアの5歳以後の発達にありました。8歳を過ぎてからナディアは、周囲の教育的努力の結果、わずかばかり言葉が話せるようになりました。それとともに、ナディアの描画能力は劇的に後退していきます。「彼女の才能の部分的な喪失が、言語の獲得のために支払わなければならない代価で」あったのです。つまり、ナディアは、シンボルや概念や言語というフィルターを通して世界をとらえる以前の、生の視覚的・感覚的世界に生きていたからこそ、優れた画像的記憶力を保持することができ、それは言語の獲得とともに失われることになったのでした。ハンフリーは旧石器時代の人類も同じであったろうと推論します。洞窟絵画は、人類が言語によって世界を二重化してとらえることができるようになる直前の一瞬の花火のようなものだったのかもしれません。

人類の発展や個人の成長を一直線の拡大路線で捉えるのではなく、「獲得の裏側には常に取り返しのつかない喪失がある」とするハンフリーのような変化の見方は、とても重要であるように思われます。それが真実であるとすれば、私たちはもっと失うものを哀惜しつつ成長することを学ばねばなりません。このことは心理学の発達の問題を越えて、生態系の変化や社会進歩、経済成長などのあらゆる変化の問題に当てはまるような気がします。

最近の進化心理学には根拠の薄いいかがわしい主張も見られますが注1、鋭い洞察に満ちた優れた本も多く出版されるようになっています。ヤーデンフォシュ『ヒトはいかにして知恵者となったか:思考の進化論』(研究社)は、そのような本の1冊です。また、比較認知科学の立場から書かれたトマセロ『心とことばの起源を探る』(勁草書房)は、発達心理学に最も大きな影響を与えつつある本です。どちらもお奨めです。

注1 Buller, D.J.  Four fallacies of pop evolutionary psychology. Scientific American, January 2009, p.60-67.

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Yoshinobu Kato

最近、「らじるらじる」というNHKラジオ番組を聴いています。お気に入りは「大竹しのぶのスピーカーズ・コーナー」と「高橋源一郎の飛ぶ教室」です。

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